記念館施設案内

ごあいさつ

本日は「平賀源内記念館」にアクセスくださいまして、誠にありがとうございます。

このたび、郷土さぬき市出身で江戸時代に活躍した平賀源内先生を愛する多くの人々の熱い思いが結集して、「平賀源内記念館」が開館しました。まずは物心両面のご援助に対し、心より厚く御礼申しあげます。

博物学者として、エンジニアとして、さらにはアーティスト、あるいは文士として多方面に大活躍した平賀源内をご紹介するには、十分なスペースとは申せませんが、ここでは全国各地に残された足跡をたどっていただきながら、その業績を感じとっていただければと存じます。

公益財団法人平賀源内先生顕彰会 会長 尾﨑 勝

平賀源内記念館

平賀源内記念館は 平成21年3月、平賀源内先生遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。
施設としては、記念館本館と、別館として550m西に在る旧邸・銅像・薬草園などとの2か所で構成しています。

館内案内

平賀源内は全国各地を博物学研究のため、あるいは鉱山開発・指導のために歩いています。皆さんのご存知の土地にもそんな源内の足跡があるかも知れません。記念館の展示は「歩く」をコンセプトに、「志度・高松」「長崎」「伊豆・秩父・秋田」「江戸」と四つの地域に分けて、源内小路の両脇に配置しました。映像で紹介する「源内奇才劇場」や、ビックリ意外な交流や出来事を展示する「源内玉手箱」、「体験コーナー」など源内小路を歩きながら源内ワールドに浸っていただきます。源内の各地での活躍やそこで残した業績が判っていただければと思っています。一巡されましたら、源内博士認定コーナーであなたの源内フアンぶりを挑戦してみてください。

展示内容

どのコーナーにも、平賀源内の年譜を掲示し、より深く知りたい方々の御要望に応えます。

1. 源内 神出奇没

平賀源内は全国をまたにかけ、各地に足跡を残しました。各地で様々な分野で交流していて、その神出鬼没ぶりが一目瞭然にわかります。

 
2. 志度・高松

からくり掛軸「おみき天神」は源内11歳のときの作。どんな「からくり」か、体験できます。

源内の指導で志度の陶工達に焼かせた、精緻な模様の源内焼。「南北アメリカ地図大皿」。その原点となった「陶器工夫書」はその内容もご覧になれます。

3. 長崎

ドドネウス著『コロイドボック』等、源内が入手した8種の洋書の一部を展示。

 
4. 伊豆・秩父・秋田
 

江戸中期の画家に影響を与えた、源内唯一の油彩画や、鉱山開発なども展示。

5. 江戸

博覧会の創始者と言われる由縁、『物類品隲』の発刊等々本草学者としての活躍とともに、戯作者の側面も展示。

エレキテル(さぬき市指定文化財)
日本最初の摩擦静電気発生装置。現存する江戸時代中期の2台のエレキテルの内の1つ。

6. 源内奇才劇場
 

平賀源内の一生を、10分間の映像で紹介。

7. 源内玉手箱

源内と杉田玄白、源内と大田南畝などあの有名人との関係や、源内がアメリカで紹介された記事などを展示。

 
多目的展示
 

多目的展示室として、企画展とか折々に俳諧連歌・金唐革紙・源内焼など特集をしています。

8. 体験コーナー

静電気発生装置「エレキテル」を2種、体験できます。

 
9. 源内博士認定
Q&Aコーナー

初級・中級・上級の問題に挑戦してください。

 
10. 源内通りを歩かれて、平賀源内旧邸へ

平賀源内旧邸

旧平賀家住宅主屋(国・登録有形文化財)

平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っています。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えでしたが、昭和9年(1934)銅像建設のため切り取られ、昭和42年(1967)旧邸内部に遺品陳列館を開設、平成12年(2000)には屋根など大改修されました。

旧志度街道(源内通り)に北面する町家。桁行(東西)12m、梁間(奥行)10mの木造厨子2階建、切妻造の建物の北正面西寄りに、入母屋造の入口となる店舗部分が張り出しています。本瓦葺で、外壁は漆喰仕上げ、大壁と真壁を使い分け、軒を塗り込めるなど、力強い外観を今に伝えています。

旧邸案内図

源内先生ゆかりの薬草園

平賀源内旧邸の南にあり、源内先生の『物類品隲』にある薬木・薬草を含め百余種を植栽しています。植物毎に、漢名・生薬名・薬用部・効用を記しています。身近にある植物にも効用があることがわかります。

薬草園由来記

高松藩蔵番の家に生まれた平賀源内は、陶村の三好喜右衛門に本草学(薬学・医術)を学んだといいます。寛延2年(1749)父茂左衛門の逝去によって役を継いだ源内は、しだいに藩内で頭角を表し、本草学の才能を認められていきました。

宝暦2年(1752)長崎に赴いた源内は、広い世界への目を見開かれ、同4年に蔵番退役願いを提出します。同6年江戸に出て当時日本有数の本草学者であった田村藍水に入門しました。

藍水のもとで本草学に出精した源内は、世界最初の博覧会とも呼ばれる「薬品会」を提唱し、宝暦9年(1759)には主催者となりました。翌月、高松藩から与えられた三人扶持を源内は「学問料」ととらえていたようですが、実質的な再仕官であり、藩主の命で薬種採集を続けることになります。

相模(神奈川県)や紀伊(和歌山県)への採集行のほか、藩内で巴戟天、ジュズネを発見するなどの業績を上げ、宝暦10年(1760)には薬坊主格に昇進しました。源内の手で御薬園(栗林公園)の整備も一段と進んだことと思います。

ただし、宝暦11年(1761)に再び高松藩を辞して江戸に戻った源内は、翌12年に第5回目の薬品会を主催し、これは壬午の大物産会と呼ばれました。その大物産会の成果を中心に、5回の薬品会を集大成したものが、源内の本草学の主著であるのみならず、当時の本草書の逸品ともなった『物類品隲』(宝暦13年刊)です。本文4巻、図絵1巻、付録1巻の計6巻より成るこの大作は、源内の本草学の質の高さと斬新さを余す所なく物語る記念碑的な著作でありました。中でも付録に記された砂糖製造法は、のちの和三盆に結実する讃岐地方の製糖との深い関わりの歴史に記された第一歩として記憶されます。

昭和54年(1979)、源内先生二百年祭記念に当たり、その偉業を偲ぶため、旧邸の一隅に、ゆかりの薬草園を新設しました。そして平成19年(2007)源内薬草研究会によって、高潮被害の薬草園を再生しました。

平賀源内先生銅像

昭和9年(1934)10月、平賀源内先生顕彰会により建立されました。

作者は小倉右一郎 [明治14年(1881)~昭和37年(1962)]

台座には杉田玄白の“嗟(アア)非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行イ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ”が刻まれています。

小倉右一郎は、さぬき市寒川町石田出身。東京美術学校彫刻科本科を首席で卒業。文展では特選を4回連続し、第三部彫塑審査員を続ける。代表作に上野国立図書館前の「小泉八雲」、靖国神社の「忠魂碑」。香川県満濃池畔の「弘法大師」銅像、坂出常盤公園の「三土忠造」銅像。

台座裏面には次のような文面が銅版に記されています。 「徳川幕府鎖国ノ時ニ在リテ夙ニ泰西ノ事情ニ通ジ科学ヲ応用シテ国利民福ノ計ヲ立テタルハ実ニ我ガ源内平賀先生ヲ以テ然リトナス 先生ハ一身百技ヲ兼ネ其著作発明ハ何レモ内外人ヲシテ驚嘆措カザラシム 資性聡明奇智ニ富ミ磊落不羈権勢ニ阿附セズ其鴻図ハ終ニ酬ユルニ由ナク悶悶ノ中ニ逝ケリ 先生ノ事績ハ史家ノ研究ヲ待ッテ益顕著トナル茲ニ同郷ノ巨匠小倉右一郎氏ニ嘱シテ銅像ヲ建テ英姿ヲ長シヘニ仰ガントス
昭和九年十月 平賀源内先生顕彰会 」

源内工房

昭和54年(1979)4月、鉄筋コンクリート造平屋建て54㎡で、平賀源内先生二百年祭の時に建築されました。「平賀源内先生遺品館」として、平成21年(2009)3月12日まで30年間、源内先生関連の資料展示の役割を果たしてきました。

今は平賀源内記念館で展示できなかったもの、例えば東京のお墓の横に立つ杉田玄白の鳩渓墓碑銘拓本とか静岡相良の源内伝説、或いは平賀家伝来品、源内焼の数々を展示しています。

工房として、源内焼クラブは旧邸の庭に再現した窯を使い、源内焼の復元に努めていて、ご予約いただければ絵付けの体験も出来ます。

また、源内薬草研究会は薬草園の管理・手入れとともに、勉強会や「源内健康茶」の製造工房として利用しています。